2/8 大森倶楽部主催講演会「おおたの花 梅をめでる」開催報告

大森倶楽部主催講演会「おおたの花 梅をめでる」を、次の通り開催、募集定員50名近くの方々にご参加いただきました。

 

 

  • 開催日時:令和7年2月8日(土)
         14:00~16:00(13:30受付開始)
  • 会  場:Luz大森4階入新井集会室
         大田区大森北1-10-14 アクセスマップ
  • 講  師:築地貴久氏( 大田区立郷土博物館学芸員)
  • 参 加 費 :無料
左 講師 築地学芸員   右 石塚理事長
左 講師 築地学芸員   右 石塚理事長

講演要約

大田区の花として、「梅」が選定されたのは昭和51年(1970年)のこと。百花の先駆けとして、寒さに負けることなく早春に花を咲かせる姿が若い層の多い(当時)大田区に相応しい花として制定されたそうだ。また、大田区の次の三か所に江戸時代から現在に至るまで、梅の名所が存在していたことからも大田区は「梅」との関わりが深いことを知ることができた。

 

1)蒲田梅屋敷

東海道の品川宿から、大森、蒲田と続く街道沿いの北蒲田村は、「梅の木村」と呼ばれるほど梅の木が多く、梅干しや梅びしおなど大森の名産として街道で販売されていたが、その花もまた見事なため見物人も多く訪れたようだ。また旅の常備薬として梅を原料とした「和中散」という万能薬を販売して多くの財をなした山本家(昭和50年まで大森の海苔問屋だった)の梅園が「梅屋敷」と呼ばれるようになった。歌川広重により蒲田の梅園として江戸土産の絵本などにも描かれている。明治初期から賑わっていた「聖跡 蒲田梅屋敷」は大正12年の関東大震災後は京急電鉄の用地開発などもあり、その賑わいは失われた。明治天皇行幸記念の私設庭園は昭和14年には東京市の史跡公園となったが、昭和28年に東京都から大田区に移管され、「大田区立聖跡蒲田梅屋敷公園」として現在に至っている。

2)大森八景園

大森駅西口から、池上通を渡ったところにある天祖神社の脇道を登った上部(右地図参照)の1万坪を明治17年(1884年)に実業家久我邦太郎が買収、八景園という遊園地(当時は梅・櫻などの植物や、腰掛台、大広間を有した茅葺の料亭などを配置した)を明治20年に開業。わずか数年で、郊外随一の遊園地として、子供から大人まで多くの来場者で賑わった。明治35年には明治天皇の皇后(後の昭憲皇太后)も行幸。現在その石碑が山王公園の向かいのマンションの一角に見ることができる。

大正2年頃には衰退し、大正5年に服部時計店の創業者服部金太郎に譲渡、園内を40区画に宅地として分譲。現在は住宅地となっている。

▲1912(明治45)年発行の『東亰市及接續郡部地籍地圖』に掲載されている「八景園」。


3)池上梅園

2月~3月にかけて見頃となる池上梅園は、昭和53年8月に大田区の管理する区内初の有料公園(庭園)として開園。30余種の梅の木が370本植えられ、多くの来園者を楽しませている。

 

池上の地に梅林を見出したのは、建築家として活躍した川尻善治。善治は、当初園芸家を目指し、大正8年(1919年)に、池上本門寺の近くの土地を購入、池上花壇と名付け、茶屋、温室での花販売なども手掛けた。日蓮宗の信徒でもあった関係で本行寺の西方に作庭に相応しい梅林の存在を知ったからではないか。その後昭和5年(1930年)に、梅林の魅力に見せられた日本画家「伊東深水」に譲渡、画室を善治が設計、その後昭和12年には建築家吉田五十八により邸宅を増築したが、昭和20年の空襲でいずれも焼失。深水は、戦後鎌倉へ転居する。

 

戦後、深水より土地を譲り受けたのは、築地で養殖鰻問屋を営んでいた小倉誠。築地と銀座の鰻屋「三楽」の欄間の下絵を深水が、彫刻は、塚原桂月(戦後大田区内の寺社彫刻などを手掛けていた)との関係があったことによる。小倉誠は、さらに北側の土地を買い増して、梅の木を植え、現在の池上梅園の素地を築いた。